【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第56回 憧れるのはやめられない by 狗飼恭子

ESSAY / COLUMN

〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは狗飼恭子さんです。

昔、憧れの人に「他者に『憧れてる』とか言うやつ嫌いなんだよね」と言われたことがある。

彼女は絵を描く人だった。髪を金髪に染めていて腕にグラマラスな女性のタトゥーを入れていた。からっとしていてウェットで、豪快で繊細で、お酒と音楽が好きだった。彼女と一緒の空間にいると、いつも見惚れてぼうっとした。それは確かに「憧れ」という感情に他ならない。

だからこそわたしは彼女の台詞を聞いたとき心底どきっとして、「そうなんだー」とどうでもいいふりしてへらへら笑った。彼女が、わたしが彼女に憧れていることを知っていてそれを言ったのかどうかは知らない。たぶんばれていただろう。そういう意地悪さも含めて、彼女は魅力的だった。それ以来わたしは「憧れ」という言葉を使えなくなった。

 『憧れ』は不思議な感情だ。好き、愛してる、尊敬している、会話したい、仲良くなりたい、付き合いたい、触りたい、それらとは別のもの。だからといって推しとも違う。『憧れ』はしいていえば、「その人になりたい」が近いように思う。

わたしが今までの人生で「この人になりたい」と心の底から思った人は、先述の彼女以外に二人だけ。自分の人生と全とっかえできたらいいのにと思う人。 一人はミランダ・ジュライ。アーティストでミュージシャンで俳優で作家で映画監督。もう一人がCharaだ。

Charaほど、憧れる対象としてふさわしい人は日本には他にいない気がする。生きざまも、見た目も、作るものも、考えかたも、年の重ね方も、全部。

作曲の力やシンガーとしてや、個性的なキャラクター、ファッションセンス、俳優としての顔など、彼女の魅力はたくさんあるけれど、その中でもわたしが一番素敵だと思うところは言葉についての感覚的感性だ。

「なぜ孤独にみんな慣れていくの? 愛の自爆装置は動き出した」

「あいしていると誠実に目に語れ」

「あたしなんで抱きしめたいんだろう?」

「うそつくのに慣れないで」

「優柔不断が横切っていく」

歌詞を一部抜粋しただけで、この短さの中にさまざまなシチュエーションが浮かび上がる。凝ったギミックや言葉遊びは使わない。素直なシンプルな文字の羅列。誰にでも意味が分かる言葉。でも一瞬で胸をつかまれる。

「あなたはなぜそんなに そんなにいつもボクを うっとさせてくれるの」

 「うっとさせる」は、普通あんまりいい状態を示さないのに、Charaの歌詞の中にあるとそれがどんな恋愛的状態なのかが感覚で分かる。けして「文学的」「論理的」「物語的」ではない。「感覚的」に理解できてしまう。

Charaの歌詞は詩だ。詩ほど、書いた本人が生きた軌跡と呼応しあう文章はない。長く文字を連ねるのが仕事のわたしは、こんなに短い言葉で強い想いを伝えることのできる彼女と、頭も心もついでに見た目も「全とっかえしたいなあ」と思ってしまう。

正直に言えば、一時期Charaを聴かなくなった時期があった。けれど再び聞きはじめた今も憧れは消えない。あ、「憧れは消えない」ってなんかCharaの歌詞っぽい。

そう思ってにやっとしてしまうわたしは、やっぱり彼女にどうしようもなく憧れている。

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小説家とエッセイスト 狗飼恭子 LINK

18歳のときに詩集「オレンジが歯にしみたから」(KADOKAWA)を上梓。その後、作家、脚本家として活動を始める。主な著作に小説「一緒に絶望いたしましょうか」、エッセイ「愛の病」(共に幻冬舎)などがある。また、主な脚本作品に映画「風の電話」(諏訪敦彦監督)、映画「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督)、映画「百瀬、こっちを向いて。」(耶雲哉治監督)など。近作に、ドラマ「忘却のサチコ」「竹内涼真の撮休」「神木隆之介の撮休」や映画「エゴイスト」(松永大司監督)などがある。