【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第7回 夏は心へと忍び込む by 武居詩織
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは武居詩織さんです。
年々溶けてしまいそうなしっかりとした夏の気配は濃くなってゆく一方で、近年はマスクも相待ってその湿度をより一層高めているように思う。窓から差し込む日差しは熱を持ち、室内にいても季節の変化をありありと感じさせてくれる。
しかし、茹だるような暑さの中で味わうかき氷の美味しさは幼い頃から変わらず、耳をくすぐる蝉の声も、夕立の後の心地よい夜道も、どうしてこうも記憶の中に鮮やかなのだろうか。ジリジリと強い日差しにあてられて、なんだか心の中も街の景色も少し高揚しているような夏が好きだ。誰しもが夏といえば思い出の一つや二つは持っているのではないだろうか。そんな思い入れの深い記憶を刻み込む季節は、やはり特別だと感じざるを得ない。
四季の変化は毎年毎年必ず訪れるものではあるのだけれど、夏というものはこんなにも個性的で激しい情感を含んでいる。にもかかわらず、日常という時の流れの延長線上に実に自然と溶け込んでいるものでもあるところがまた不思議なところである。真っ只中にいる時はきっとただひたすらに浸って時はすぎてゆき、ふと気がついたら特別なものになっている。夏ってなんだかそんな感じだなと思う。
〈あの夏の日〉なんて言ったら、それだけでなんだかありそうな予感しかなくて少しドキドキしてしまう。さながら花火のような儚い美しさを孕む魅惑的なものなのだ。数々の物語や名曲を生むにふさわしい季節だ。
そんな私の心の隙間に、気がついたら忍び込んで特別な存在感を放っていたのが山下達郎である。自分の中でどうも夏に結びついてしまうのは、〈気がついたら特別なものになっていた〉というところが、なんだか夏みたいだからだろうか。その存在の特別さに気がついたのがやはり夏がきっかけだったからだろうか。
幼い頃から数えれば自然と耳にすることは多く、認識が一致する前に曲が先行して耳に残って体に溶け込んでいた気がする。しかし、好きというには気が引けてしまうような、みんなが大好きな憧れの先輩といったところで、なんだかこっそりと静かに一人で味わっていた。それがより鮮明に形を表したのがある夏の瞬間であったと思う。
音楽を聴くことにおいて私が大好きな空間は車の中である。室内のようなプライベートな距離を保ちつつも、窓の外を流れ行く景色を眺めながら音がより体にすっと入ってくる。そしてそれを共有することもできてしまうのだ。周りを気にせず、普段より少し音量を上げて楽しめるところも好きな所以だろう。
その時、カーステレオから流れてきた『Sparkle』はもう何回も聴いたことがあるにもかかわらず、一層の輝きを放ち夏の日差しを纏って私の心へと忍び込んできた。小気味良いカッティングギターに誘われるように車内に反射する太陽は瞬きを増し、少し汗ばんだ首元に吹き付けるクーラーと相待って心地よい高揚感を帯びた涼風を心にまで吹かせていくようだった。
その後、ライジングサンロックフェスティバルで初めて山下達郎のライブを見ることになるのだが、始まった瞬間に自然と涙が頬をつたったのには自分でも驚いた。Sigur Rosの国際フォーラムでのライブで「救われた……!」という気持ちになり涙したことはあったが、曲も始まるかどうかの瞬間から、なぜだか理由のわからない感極まり方をしたのは数々のアーティストのライブをみてきたけれど、その時だけである。
〈なぜだか〉の中にある説明のつかないものは確かにそこに存在していて、うまく言葉にできない、しようとも思わないくらいが素直な感情らしくていいのだと思う。年月が経つにつれ、もはや夢だったのではと思うような気持ちにもなってくるが、その涙はまさに〈僕らの夏の夢〉ならぬ、紛れもない尊い瞬間であったと今でも特別に思う。
いつになっても私にとっての〈夏〉は、きっとこれからも特別な予感を感じさせてくれるだろう。