【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第50回 華麗なる社交と読心術の天才にして、類まれな個性を無垢に操縦するシンガーソングダンサー by カワムラユキ
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターはカワムラユキさんです。
久しぶりにテレビを付けたら岡村ちゃんが斉藤和義さんとのユニット、岡村和義として生放送出演しているのを見かけた。共演していた純烈さんが僕らは岡村ちゃん世代!ヘポタイヤー!ぶーしゃからかぶー!と連呼して盛り上げていて、なんて平和な景色なんだろうと思わず涙が。番組のトリで披露された新曲「サメと人魚」は、最近のポップミュージックの表舞台ではなかなか聴けなくなった深みのある大人のラブソングで、それぞれの詩世界と音楽的魅力と技術、卓越したパフォーマンスが見事に融合した名曲。
孤高のイメージで人を寄せ付けないカリスマ的オーラを纏っていた岡村ちゃんは近年、雑誌連載やラジオ番組での対談を数多くこなし、世代を越えて様々なアーティストとのコラボレーション作品を発表し続けている。独自の成熟を遂げて導き出した現在地は、華麗なる社交と読心術の天才にして、類まれな個性を無垢に操縦するシンガーソングダンサーというステージだったのだろう。あぁ生きるって歳を重ねるって素晴らしい。
振り返ればあの頃、想像力は鳥より高く飛べると寺山修司先生の名言でもあったけれど、感度が高いティーンエイジャーの感受性は、インターネットが無かったお陰で想像力の強度を純粋培養してゆくことが可能だった。そんなY2K以前の岡村ちゃんの存在及び頭脳はバブル景気以降の世論と空虚の清濁も併せ呑んで、且つその副作用を若者の現在地の代弁者として見事に転嫁した、最も刺激的なポップアイコンだったことは周知の事実。レンタルビデオに家庭教師やセクハラ上司、名曲のリリックやタイトルに羅列された単語そのものが誘因するフックは、リスナーが過ごす時代やステイタスによって印象やメッセージが絶妙に変容するなんて、産み出した作品群が言葉とイメージの魔法に愛され過ぎていると言っても過言ではない。
ネットの発展以降は妄想力を育てる間もなく、それなりのアンサーが検索されてしまう近現代でさえも、ある種の映えと親和性が岡村ちゃん自身の存在と作品にはあり、バズやミームも併せてオリジナルの化学反応が巻き起こっている。表現者というより一人の人間として常に問いかけ続けている解けそうで解けない恋愛や結婚についての発想や苦悩、そして青春の光と影とは?永遠のテーマでありながら、そのすべては時代が変わっても己の肉体という媒体にのしかかる問題なんだいうことを常に気づかせてくれる。
だからこそ改めて思うのは、岡村ちゃんは今でも決して平穏とは言えない社会の真ん中で、ずっとダンスしているんだなってこと。最近は脳化社会とか言われているけれど、プリミティヴで真っ直ぐな肉体的躍動、答えは全て血と体の中にあって、メタファーとかユーモアなんて知識や教養のアクセサリーなんだから取っ替え引っ替えして状況を楽しめば良いのさと。だから、それぞれのタイミングでも良いから踊ることは大切なんだ!出来ればというか必ず!岡村ちゃんのビートに抱かれながらね♡