【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第46回 「景色」と「自分」を変換する佐野元春のヴォキャブラリー by 渡辺祐
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは渡辺祐さんです。
世界的に「シティ・ポップ」が聴かれているらしいという嬉し恥ずかし感のある一報が届いてからだいぶ経ちました。たまに出会う外国人の方も、大貫妙子や竹内まりやなどなど、よくご存知だったりして、自分が作ったわけでもないのに自慢げに語ったりしちゃうボク(ただし翻訳アプリ使用)。
その勝手に訪れた共有感は嬉しいわけですが、とはいえその聴かれ方に違いはあるだろうな、とも思うわけです。それはやっぱり歌詞。日本語を解さない方はもちろん、70年代から80年代にかけてリアルタイムで聴いてきた世代とイマドキのリスナーでも「聴こえてくる景色」は違う気がする。リアルタイム派でも、都心のワンルームマンションに住んで六本木のディスコで浮かれていたサーフ&スノウなアナタと、中央線沿線の風呂なしトイレ共同の四畳半に住んでいて居酒屋の湿った畳の座敷で安酒に沈んでいたワタシとでも違うでしょ。ちぇ。
とまあ、「シティ」への感覚の違いはあるとしても、ニュー・ミュージック/シティ・ポップは時代の音楽になった、つまり「イケていた」。洋学的な洗練されたサウンドがイケていたのはもちろんですが、「イケている歌詞」も忘れてはいけません。
その「イケ詞」のひとつのキモは、カタカナ語の使い方でありましょう。現在はJ-POPにも英語(の文章)がじゃんじゃん登場しますが、70年代から80年代にかけては、見えているモノやコトをなんと呼べばカッコいいのかという「景色を変える変換装置」だったんですねカタカナ語。
例えば大貫妙子さんも在籍したシュガー・ベイブの「♪ダウンタウンへくりだそう」(75年)。カッコいい。でも、どこなんだダウンタウン。荒井由実「♪中央フリーウェイ」(76年)。カッコいい。結果的にそう呼ぶ人はあまりいませんが。竹内まりや「♪借りていたディクショナリー」(79年)。カッコいい。ちなみにこの「SEPTEMBER」の作詞は松本隆。松本さんで言えば、大滝詠一「君は天然色」の「♪思い出はモノクローム」(81年)も忘れがたい。「♪思い出は白黒写真」じゃ様になりません。でもタイトルは「天然色」。カタカナ語もニホン語もいい意味での異物感があって、ひっかかりどころのお手本のよう。
そんな空気の中で、佐野元春さんも「聴こえてくる景色」をアップデイトしたひとりといって過言ではないでしょう。カタカナ語の使い方でいえば、初期は曲のタイトルからして「ガラスのジェネレーション」であり「悲しきレイディオ」です。「ガラスのジェネレーション」では「♪ハロー・シティライツ」のワン・フレーズで街のきらめきをイメージさせる、それもカッコよく。現実に目に入ってくるシティライツがお好み焼きや風俗店のネオンであったとしても、です。
そう書くと、カタカナ語がなんか上っ面のカッコよさを求めているように思えちゃうかもしれませんが、それもちょっと違う。リアルな景色やリアルな自分には、変えようのないダサさが沈殿しているからこそ、歌の中でそれを更新したいと願う、「見たい景色」「なりたい自分」を可視化する、そんな希求なんじゃないかしらん。つまり「♪この胸にサムデイ」。そのココロは、佐野さんの歌詞の「ニホン語部分」の鋭さを噛みしめることでよくわかる。カタカナ語問題も含め、カッコよさとカッコ悪さのボーダーを(やや前のめりに)超えようとすることが、80年代へと向かうジェネレーションの共通一次試験だったのかもしれないなあ、と40余年を経て思う次第。
音楽の世界ではサウンドやビートの変化進化がわかりやすい時代のシンボル。でも、それだけでは(心に)ヒットしないのもポップ/ロックのデステニー。新しい何か、若い何かが時代に舞い降りるとき、いい意味で異物感のある新しい言葉&言葉遣いがカムツギャザー。ルー大柴か。
現在進行形ではどんな言葉が「景色を変える変換装置」なんですかね。「♪青春はどどめ色」by藤井風しゃんとかですかね。確かにどどめ色だったなあ、中央線沿線の風呂なしトイレ共同の四畳半に住んでいて居酒屋の湿った畳の(以下省略)。
編集者、DJ 渡辺 祐
1959年神奈川県出身。編集プロダクション、ドゥ・ザ・モンキーの代表も務めるエディター。自称「街の陽気な編集者」。1980年代に雑誌「宝島」編集部を経て独立。以来、音楽、カルチャー全般を中心に守備範囲の広い編集・執筆を続けている。現在はFM局J-WAVEの土曜午前の番組『Radio DONUTS』ではナヴィゲーターも担当中。