【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第4回 外食ならぬ「外聴」派、渡辺貞夫でひとまわり by 渡辺祐
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは渡辺祐さんです。
外で音楽を聴くのが好物である。フェスや野音? いや、それもいいのだけど、この場合の「外」は「外食」の外だと思っていただければ。いわば「外聴」。「街聴」でもいいかな。例えばジャズ喫茶やソウル・バー。あと、ディスコやクラブも入れておきますか。かれこれ45年ぐらい、巷にある「空中に音が放たれているところ」に出かけては、そこに居る。居っぱなし。幼い頃、祖父母が盛岡で喫茶店(夜はバー)をやっていて、夏休みにレコード持参で上野発の東北線に乗り、開店前の店のターンテーブルに載せたりしていた、そんな遠い日の背伸びのせいかもしれない。壁に染みついた珈琲と煙草の香りは、これもまた好物である。
少なくなったとはいえ、いまも健在のジャズ喫茶。高校時代から授業をサボっては、新宿辺りで入り浸っていたものですが(よい子は真似をしないでください)、その足で生音が聴ける場所も見つけてしまった。当時、紀伊國屋書店と伊勢丹の間の裏通りにあった新宿のライブハウス「PIT INN」には「朝の部/昼の部/夜の部」と日に3度のライブがあった。朝の部といっても始まるのは昼の12時。サボり隊としては、この時間設定が実に具合がいい。しかも、チャージはたしか300円。朝の部に出演しているのはさすがに若手ばかりなので、誰を見たのか名前までは思い出せないけれど、ちょっとした背徳感の香る愛おしい時間だった気がする。70年代後半の話だ。
渡辺貞夫さんを初めて見たのも、ここ新宿の「PIT INN」だった。もちろん「夜の部」だったと思う。ラジオでは「渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ」を担当し、アルバムで言えば『マイ・ディア・ライフ』が出た頃か、『カリフォルニア・シャワー』は出る直前だったか、そんな頃。ジャズ喫茶でリクエストをする、というのは10代の小僧にはちょいとばかり勇気がいった時代で、いわば奮発力(そんな言葉ないか)を発揮するときに「ウィントン・ケリーか渡辺貞夫をお願いします」などと言ってみたりしていた。いやまあ、テキトーな感じで申し訳ない。
肝心のライブは、そもそも記憶力のビット数が足りていないので、覚えているのは雰囲気だけと言ってもいいのだけど、小気味のいいプレイを聴きながら、小柄な人なのだな、と思ったのを覚えている。
そんなテキトーな10代だった若者も歳を取る。60代になって、思わぬところで渡辺貞夫さんにまた出会った。星野哲也監督が岩手県一ノ関にある伝説的ジャズ喫茶「ベイシー」店主の菅原正二さんを追ったドキュメンタリー映画「ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)」。1970年の開店以来、毎年のようにここでライブを行っている渡辺貞夫さんが、銀幕の中で「ベイシー」の魅力を語り、ライブ前の姿を見せてくれているのだ。サックスに使うリードをテーブルに並べて丁寧に吟味に吟味を重ねる、その様を見ながら、あの日の「PIT INN」の雰囲気がちらと蘇る。我が薄毛頭のストレージにかろうじてデータが残っていて助かった。
渡辺貞夫さん、2021年に音楽生活70周年。一ノ関「ベイシー」は、2020年に開店50年を迎えた。共に現役。ついでに筆者は、2021年で編集生活40周年。いまだに外食ならぬ「外聴」派である。「思えば遠くにきたもんだ」という歌もあるけれど、ひとまわりしてみれば「思えば近くにいたもんだ」と呟いたりもするのである。
編集者、DJ 渡辺 祐
1959年神奈川県出身。編集プロダクション、ドゥ・ザ・モンキーの代表も務めるエディター。自称「街の陽気な編集者」。1980年代に雑誌「宝島」編集部を経て独立。以来、音楽、カルチャー全般を中心に守備範囲の広い編集・執筆を続けている。現在はFM局J-WAVEの土曜午前の番組『Radio DONUTS』ではナヴィゲーターも担当中。