【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第31回 (いばらの上の)鍵盤とキーボード by 狗飼恭子
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは狗飼恭子さんです。
共感覚というものがあるらしい。
文字や数字や言葉に色や形が見えたり音楽が聞こえたり、音楽がそのまま色彩豊かな絵になって見えたりする知覚現象のことで、たとえば画家のワシリー・カンディンスキーはワーグナーやシェーンベルクの音楽を聴いてそれを絵にしたし、宮沢賢治は、ベートーベンの交響曲が「大空からいちめんに降りそそぐ億千の光の征矢」に『見えた』という言葉を残した。
平凡なるわたしにはもちろんそんなスペシャルなものはないのだけれど、もしあるとしたならば「上原ひろみの音楽を『見』たい」とずっと前から思っている。
上原ひろみさんのライブに初めて行ったのは、たしかブルーノートだった。お友達が誘ってくれたのだ。ジャズに対してなんの知識もないわたしがついて行った理由はとても不順で、ブルーノートの美味しいご飯を食べたかったから、だった。それなのに彼女が舞台に現れピアノを弾きはじめた途端、あんなに楽しみにしていた食事のことをすっかり忘れた。彼女が鍵盤を叩く姿から目が離せず、なんであの人はあんなに楽しそうなんだろう、とずっとずっとみとれていた。
仕事をすることは、多くの人にとって避けては通れない道だ。そこは大抵いばらの道で、歩き続けるのが大変に難しい。わたしは「文章を書くこと」が好きで物書きになったけれど、それでもほとんどの時間、楽しくない。積極的につらい。頭の中に浮かんだこの情景をどうしたら伝えられるだろう、なるべく美しいリズムでなるべく少ない言葉でなるべく今まで発見されていない言い回しで、なんて、絶対無理なのにうんうんうんうん唸りながらパソコンのキーボードを叩き続ける。子供の頃七年間ピアノを習っていたからキーボードを叩くのは割と得意だ。言葉を紡ぐのも音を奏でるのも指十本を効果的に使えるほうが有利な気がするので、ピアノ経験は今の仕事にそれなりに有効に働いている。
でもキーボードを叩くわたしを客観的に眺めたら、楽しそうには見えないだろう。鏡を見れば眉間に寄せる皺の跡がくっきりはっきり残っている。
分かってる。かの上原ひろみさんだって練習時や作曲時はしんどい顔でピアノの鍵盤を叩いているに違いない。天才なら簡単にものを生み出せるはず、なんてのは幻想だ。でもあんなに「音」を「楽」しむことができる瞬間があるのなら、そのすべての辛苦は容易に乗り越えることができるんじゃないかなどと思ってしまう。
わたしは多分、彼女のことが羨ましいのだ。
わたしもあんなふうにキーボードを叩きたい。それがもし無理なんだったら、せめて彼女の音楽を『見』たい。そしてそれを文章にしたい。彼女の音を書き記すことができたとき、ようやくきっと、「文」を「楽」しむことができるんだろうなあと思うのだ(それだと「文楽」になっちゃうよ、などという突っ込みはいらない)。
パソコンの文字入力キーと鍵盤楽器を同じく「キーボード」って呼ぶのはなんか洒落てるな。なんてそんなことを考えながら、今日もわたしはいばらの道の上でキーボードを叩く。
いつか音楽のような文章を書きたい、そう願いながら。
小説家とエッセイスト 狗飼恭子 LINK
18歳のときに詩集「オレンジが歯にしみたから」(KADOKAWA)を上梓。その後、作家、脚本家として活動を始める。主な著作に小説「一緒に絶望いたしましょうか」、エッセイ「愛の病」(共に幻冬舎)などがある。また、主な脚本作品に映画「風の電話」(諏訪敦彦監督)、映画「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督)、映画「百瀬、こっちを向いて。」(耶雲哉治監督)など。近作に、ドラマ「忘却のサチコ」「竹内涼真の撮休」「神木隆之介の撮休」や映画「エゴイスト」(松永大司監督)などがある。