【ポップの羅針盤】第29回  フジロックの2つのレイヤーと、Massive Attackが残した問い by 柴 那典

ESSAY / COLUMN

フジロックは、体験として2つの異なるレイヤーを持っている。

苗場から東京へと向かう深夜の高速道路を飛ばしながら、そんなことを考えていた。

今年のフジロックは、前夜祭を含む4日間でのべ123500人が来場。ここ5年間で最大の動員数だ。若い世代の客も多かった。外国からの来場者もかなりいた。盛況だったと思う。会場も混雑していた。雨も降った。それでもストレスを感じるような場面はほとんどなかった。

一方で、数字は発表されていないが、おそらく来場者を遥かに上回る人数が配信を通してフェスを視聴した。ここ数年、フジロックはAmazon Musicがオフィシャルサポーターとなり、Prime VideoTwitchで無料生配信を行っている。日本の4大フェスでも無料でのライブ配信が定着しているのはフジロックだけで、そのことがフェスの持つ特殊なメディア性につながっている。

ステージに立つアーティストは、目の前にいるオーディエンスに向けて演奏し、言葉を放つ。しかしそのパフォーマンスとステートメントは、その外側に届く。熱量のこもった実感ではなく、切り取られた一場面への反応のほうが、コントラバーシャルな話題性として拡散していく。今年も、特に1日目にそういう実例があった。僕自身、それを受け取ったのも配信とSNSを通じてだった。

野外フェスでの体験は、身体性と深く結びついている。特にフジロックはその要素が強い。長靴なのか、スニーカーなのか、トレッキングシューズなのか、みんな足元にこだわりを持っている。僕もいろいろ試したけれど今のところOnの防水ハイキングシューズがベスト。夜の底冷え対策としてライトダウンベストを丸めてジップロックに入れて持ち歩くのだけど、今年みたいな雨続きの日には本当に役に立つ。濡れるとか肌寒いとか、そういう肌を通じて感じるものが先に立つ。そして、森の中を歩く時の空気の匂いや、キラキラと光る装飾を見上げるときの首の動きや、泥の水たまりを避けて歩く足取りや、だんだんと蓄積する疲労や、そういう身体感覚と不可分のものとしてフェスの記憶が残る。

でも、配信には、そういう身体性のレイヤーはない。そのかわりに情報と記号性のレイヤーが強く、かつ広範に行き渡る。単にリアルとオンラインの違いだけでなく、無料かつ生配信ということが大きな意味を持つ。コメントやSNSを通じて「誰かの言及」がリアルタイムに入ってくる。それが自分の感覚と混じり合う。

もちろん、どっちが良いとか悪いとかじゃない。フェスの体験がそういう2つの異なるレイヤーを持っているということ。しかも現地のオーディエンスだってみなスマートフォンを握りしめているわけだし、そこでSNSを観たり、宿での休憩中に配信を観たりするわけで、その2つのレイヤーは重なり合っている。僕自身、1日目は配信、2日目と3日目は現地参加だったので、その両方を通じてフェスを体験した実感がある。

だからこそ、3日目のヘッドライナーに出演し、バンド史上初のライブ配信となったMassive Attackのパフォーマンスから、ずっしりと重いものを受け取った感触があった。

ステージ背景のビジョンに映し出されたのは、情報の洪水のような映像だった。日本語の字幕を駆使し、テクノロジーと市場経済と戦争が結びつく現代社会の苛烈な様相を暴き出す。イスラエルによるガザ侵攻、中東問題の根源となったサイクス・ピコ協定とバルフォア宣言、韓国の光州事件など、様々なトピックを示し、社会の現状を告発する。

映像を通して示されたテーマの核にあったのは「人間性の剥奪」だったように思う。ニューラリンクによる猿の脳波デバイス実験。顔認証システムによる観客のトラッキング。アテンションを惹きつけるために粗製乱造される荒唐無稽なフェイクゴシップ。テクノロジーが「人間らしさ」の境界線を踏み越え、AIとアルゴリズムが自我を先回りする。フィードバックシステムによって感情が換金される。技術の発展がディストピアを呼び寄せる現状が可視化される。

僕はそれを現場で観ていた。思ったのは、配信だったらキツかっただろうな、ということ。ビジョンを目で追いながら、身体性のレイヤーでは音楽そのものの美しさと躍動を感じていた。ベースラインの音圧と、深く沈み込むようなグルーヴと、ストリングスの壮麗な響き、エリザベス・フレイザーの歌声。大音量に身を任せていた。生身の興奮があった。これを記号性と情報のレイヤーで視聴していたら、全てを脳で受け取ることになる。音の快楽よりも意味の奔流が先に立つ。

《自分の感情や思考は本当に自分のものなのだろうか》

終盤、ビジョンにはこんな一言が映し出された。そして真っ黒な背景の前で「Teardrop」を披露し、ライブは終わった。情報環境への疑念を主題にしたセットだからこそ、彼らはキャリアで初めて配信を解禁したのだろう。そんなことも思った。

ステージが残したのは、とても不穏な余韻だった。誰もが最後の拠り所として信じている「自分」としてのアイデンティティが、もはやネットワークの断片でしかないのだとしたら。それが不安や混乱をもたらしているのだとしたら。彼らの問いかけは、「誰かの言及」がリアルタイムで飛び交うオンラインの環境に身を置く人にとっては、きっと身に覚えがあるものだろう。

僕自身も、似たようなことをずっと考えている。遠くない将来に、多くの人は「ネットワークにアクセスすることのできるひとつの端末」としての自我を当たり前に生きるようになるのではないかという予感がある。いざ人間から人間性が失われようとしていくときに、きっとその状況を「そういうもの」としてすんなり受け入れるだろうという確信がある。

人が記号的な存在に自らを最適化する未来が前景化している。そんなことを考えながら、帰り道を歩く。「SEE YOU NEXT YEAR」と書かれたゲートの写真を撮ってSNSにポストする。また来年。

車に辿り着いて、靴を脱いで履き替える。泥を落とす。知らない間に虫に刺されていたみたいで、足元にじんわりとした痛みと痒みがある。これは自分のものだ。そう思ってアクセルを踏む。

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音楽ジャーナリスト 柴 那典(しば・とものり) LINK

1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。京都大学総合人間学部を卒業、ロッキング・オン社を経て独立。音楽を中心にカルチャーやビジネス分野のインタビューや執筆を手がけ、テレビやラジオ出演など幅広く活動する。著書に『平成のヒット曲』(新潮新書)、『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『ボカロソングガイド名曲100選』(星海社新書)、『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。ブログ「日々の音色とことば」 
Twitter@shiba710 /note : https://note.com/shiba710/