【ポップの羅針盤】第25回 ジャスティン・ビーバーとYeが示したもの――超越者は半球の上に立つ by 柴 那典
ESSAY / COLUMN
トップアーティストにとって、ステージは「神話」を見せる場所になりつつある。
2026年のコーチェラ・フェスティバルを見て、そう感じた。コーチェラはいまや単なるフェスではなく、YouTubeの映像配信も含めた「世界最大のプレゼンテーション・プラットフォーム」になってきている。特にヘッドライナーにとってはそうだ。音楽を奏でて歌うだけではない。趣向を凝らした演出でそのアーティスト自身が「何を背負っているのか」を見せる、物語性の強いパフォーマンスを繰り広げるようになっている。
おそらく起点は伝説となった2018年の「ビーチェラ」だろう。そしてそれを加速させたのは、オペラハウスを模した壮麗な舞台とゴシックな世界観をもとに全5幕の完璧なショーを見せた2025年のレディー・ガガだ。そこで号砲が鳴った。楽曲の強さだけでなく、「何をどう見せるか」という発想力が競われる場になった。建築、映像、ダンス、ファッション、あらゆる要素を取り込んだ総合芸術としてのステージが構築されるようになった。
コーチェラだけではない。トップアーティストのモニュメンタルなライブにおいては「勝負をかけた最初の絵面」が重要な役割を果たす。バッド・バニーのスーパーボウルでは、サトウキビ畑の中から登場することでプエルトリコの歴史と伝統を背負った自らのアイデンティティを示した。BTSの復活ライブでは、ソウルの光化門広場の空撮で「韓国という国家の正面玄関」を背負うようになったグループの現在地を見せた。
今年のコーチェラでヘッドライナーを務めたのは、サブリナ・カーペンター、ジャスティン・ビーバー、カロルG。それぞれ全く異なる方向性の意味合いを持つライブだった。数々のレジェンドを招き「ラテンの祝祭」を形にしたカロルGのパフォーマンスも記憶に残るものだったが、何より印象的だったのはサブリナ・カーペンターとジャスティン・ビーバーの対照的なステージだった。
サブリナ・カーペンターが見せたのは「オールド・ハリウッドの夢」だった。華やかできらびやかなセットを組み上げ、名優たちをゲストに招いたショーを展開した。ヒッチコック的な白黒映画のオープニングムービーに始まり、『オズの魔法使い』風のテクニカラーに転じるオープニング、ウォーク・オブ・フェイムの花道、かつてのレコーディングスタジオを模したボーカルブース。ステージには「SABRINAWOOD」のサインがそびえ立つ。しかし、華やかであればあるほど、それは同時に強烈な空虚さを感じさせた。そこにあったのは過去への憧憬だった。「かつてそうした夢が存在した」という記憶だった。
もちろんサブリナはそのことに自覚的だ。ショーの物語性の中に「全てが終わってしまった未来」から現在を回想する視点が織り込まれていた。そのことが「年老いた未来のサブリナ」を演じる中盤のスーザン・サランドン(2週目はジーナ・デイヴィス)の長い独白で明らかになるという構成だった。
サブリナが見せたのは、かつて栄華を誇った「ハリウッド的スターシステム」の輝きを、それが黄昏を迎えていることも自覚しつつ背負う覚悟だった。だからこそ2週目にサプライズで登場したマドンナが「20年前と同じ衣装で登場した」演出にも大きな意味があった。サブリナが示したのは「再演」としてのアイデンティティだった。
一方で、ジャスティン・ビーバーはミニマリズムに徹したステージだった。派手な演出もなければダンサーもいない。白い繭のような半球状のステージに登場し、シンプルな衣装を身にまとって歌った。華やかさよりも肩肘張らないムードを示すパフォーマンスだった。
中でも目を見張ったのは中盤だ。机に向かい、MacBookを操作しながらYouTubeで自身の動画を投影する。「Baby」などかつてのヒット曲だけでなく、子供時代に投稿したクリス・ブラウンやNe-Yoのカヴァー動画をかけて一緒に歌ったり、喋ったり、すぐに止めたりする。ガラス扉にぶつかったミーム動画を笑いながら見せたりもする。こうした演出は賛否を呼んだ。「手抜きだ」とか「カラオケだ」のような声もあった。しかしそうした浅薄な批判はジャスティンの卓越した発想力と鋭い批評性を何もわかってない。これは「YouTubeの勃興と共にスターダムを歩んだ最初の一人」であるジャスティンにしかできない意味のあるパフォーマンスだ。
スーザン・サランドン(あるいはジーナ・デイヴィス)が演じた「年老いた未来のサブリナ」の独白には、こんな言葉があった。
《フラニー、私のことをYouTubeでよく見るのよ。 動画を見つけてきては私に見せて、「これ、全然ほんとのあなたって感じしない」って言うの。 まあ、そうよね。YouTubeなんて現実じゃないもの。 だから少しかわいそうだなって思う。 あなたは本物を見たことがないんだもの》
YouTubeなんて現実じゃない――。そう示したサブリナのテーゼに対して真っ向からのカウンターとして機能したのが「子供の頃の“本当の自分”が黎明期のホームビデオ的なYouTubeの中にあった」ジャスティンのMacBookの画面だった。しかも、サブリナが「華やかであればあるほど空虚」なポップスターとしてのアイデンティティを背負う覚悟を示したのと対照的に、ジャスティンの佇まいには飾らない充足感があった。彼にとって過去は「かつての栄華」ではない。セレブリティとして消費された苦々しい傷跡でもある。それでも、ジャスティンはそうした過去を笑顔でファンと共有する姿勢を見せていた。彼が見せたのは、何も背負おうとしないパーソナルな「親密さ」の象徴だった。
ゲストの人選も象徴的だった。ダンサーではなく気の知れた仲間だけが白い繭の上に立った。その代表が終盤で加わったディジョンやMk.geeだろう。2週目にはビリー・アイリッシュがサプライズで登場した。その登場の仕方も象徴的だった。呼んだのはジャスティン本人でもなく、マネジメントでもなかった。ステージ下で見ていた妻のヘイリー・ビーバーがビリーを舞台に押し上げた。
ビリー・アイリッシュは幼い頃から熱狂的なジャスティン・ビーバーのファンだった。そしてジャスティンが歌った「One Less Lonely Girl」は、キャリア初期のライブにおいて客席からランダムに女の子を選んでステージで共に歌う演出の定番曲だった。だからこそ、涙ぐんだビリーはステージの上で「ひとりの女の子」に戻っていた。とても親密な、スペシャルな瞬間だった。
そんなジャスティンの姿を見ながら思い出したのは、コーチェラの1週間前、Ye(カニエ・ウェスト)がLAのSoFiスタジアムで見せたライブだった。
とても衝撃的なライブだった。地球を映し出した巨大な半球の上に立ち、今まで誰も見たことのない演出を繰り広げた。新作『BULLY』の収録曲だけではなく、これまでの作品を網羅する集大成的なセットリスト。そこで見せたのは、神話的な象徴性のあるパフォーマンスだった。
ライブは「KING」から始まる。霧に包まれた地球の上に立ち「Power」など力強い曲を次々と放つ姿は、王や支配者のイメージを具現化している。ただその一方で、「Wolves」などエモーショナルな曲では威圧感よりも「高い場所に一人でいることの孤独」が伝わってくる。
中盤からはトラヴィス・スコットなど数々のゲストも登場した。なかでも驚きをもたらしたのがローリン・ヒルの登場だ。90年代ヒップホップの伝説であり、カニエ・ウェストにとっては初期の代表曲「All Falls Down」で引用した自身の原点としての存在でもある。さらに、Yeが娘のノース・ウェストをステージに上げ、ローリン・ヒルが息子のザイオン・マーリーとYG・マーリーを伴ってステージに現れたことで、そこには「血脈」や「継承」のモチーフも加わっていた。
地球を足元に置いたYeと、白い繭の上に立ったジャスティン。それぞれが見せたものは全く違うものだったけれど、その二つのライブには通底するものがあった。どれだけ豪華なライブをできるか。どれだけの予算をかけられるか。壮大なセットに沢山のダンサーを従えた完璧なショーを見せつけられるか。そうした物差しの上で競うのではなく、ルールそのものを書き換える場所に、この二人は立っていた。ひとりの身体が、ある高さにただ立っている。それだけで成立する神話性がそこにあった。
超越者は半球の上に立つ。2026年4月、そのことを見せてくれた二人がいた。
音楽ジャーナリスト 柴 那典(しば・とものり) LINK
1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。京都大学総合人間学部を卒業、ロッキング・オン社を経て独立。音楽を中心にカルチャーやビジネス分野のインタビューや執筆を手がけ、テレビやラジオ出演など幅広く活動する。著書に『平成のヒット曲』(新潮新書)、『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『ボカロソングガイド名曲100選』(星海社新書)、『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。ブログ「日々の音色とことば」
Twitter:@shiba710 /note : https://note.com/shiba710/