【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第80回 スピッツについて語るときに我々の語ること by 狗飼恭子

ESSAY / COLUMN

〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは狗飼恭子さんです。

 

 「あなたのことを 深く愛せるかしら」

というフレーズを聞いたとき、信じられないくらいどきっとした。

どんな場面で、どんな状況で、どんな人が、一体誰に、どんな気持ちで投げかけた言葉なのか。あまりにも想像が広がりすぎてうっと息がつまった。

   初めて聴いたのはとてつもなく若かったころだけれど、そのときの衝撃を今でも覚えている。

愛せるかと問うているわけではなくて、「深く」愛せるかと尋ねているということは「浅く」は愛しているわけで、では愛の浅深とはいったいどういうことなのか、浅いのと深いのとでは何がどのように違うのか。

混乱した。

愛は強くて必ず勝って、世界を救って、永遠で、最も尊くて、なるべくたくさんあったほうがいいもの。そう信じ込んでいたわたしの心は、この歌のせいで木っ端みじんになった。

なんて優しくない歌詞なんだ。その優しくなさを、こんなに綺麗に包み込んで柔らかく甘く可愛らしく煮詰めて忘れさせなくさせるなんてひどい。

知ってしまったことを知らないことにはできない。もう取り返しがつかない。

わたしにとって、愛は単純な光ではなくなった。

スピッツの歌に出会ったせいで。

 この歌を、友達がいつも歌っていた。

友達は少し体を悪くしているので、わたしは友達のことをいつだってちょっとだけ心配している。

 数年前、その友達とスピッツの出演する野外フェスに行く約束をした。でも開催の数週間前、天気が荒れる予報が出た。交通機関が止まるだろうとニュースで注意喚起されるレベルの荒天予報だった。フェスも中止になる可能性が高かった。友達は断念して、わたしは一人でスピッツを聴くことになった。

直前までざあざあの大雨だった。それなのにスピッツの出番になった途端、太陽が顔を出した。 

だから何ってわけじゃない。それはただの事実だ。

 「あなたのことを 深く愛せるかしら」には、語尾に「?」がついていない。だから相手に問うているわけではないのかもしれない。自問自答なのかもしれない。だとしたらこの台詞のあとには「いや、できない」と否定が入ることになるかもしれない。

でも深く「愛せない」からと言って愛じゃないわけではなく、頬が冷たいからといって死んでいるわけではない。大人だからって子どもみたいでいられないわけでもない。

はじめてあの歌を聞いたときの衝撃を忘れられないまま、ずっと自問自答を繰り返している。

わたしは今、誰かを世界を「深く」愛せているんだろうか。

スピッツに出会ったせいでわたしの人生は複雑なものになってしまった。もっと単純に生きられたほうが楽なのに。そしてまた彼らが新しい歌を出すたびに、心に問いが増えていく。

わたしは、スピッツを少し憎んでいるのかもしれない。そしてその憎しみは、深い愛にどこか似ているかもしれない。

profile_img

小説家とエッセイスト 狗飼恭子 LINK

18歳のときに詩集「オレンジが歯にしみたから」(KADOKAWA)を上梓。その後、作家、脚本家として活動を始める。主な著作に小説「一緒に絶望いたしましょうか」、エッセイ「愛の病」(共に幻冬舎)などがある。また、主な脚本作品に映画「風の電話」(諏訪敦彦監督)、映画「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督)、映画「百瀬、こっちを向いて。」(耶雲哉治監督)など。近作に、ドラマ「忘却のサチコ」「竹内涼真の撮休」「神木隆之介の撮休」や映画「エゴイスト」(松永大司監督)などがある。