【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第73回 同じ歌を歌うんだ by 狗飼恭子

ESSAY / COLUMN

〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは狗飼恭子さんです。

 

    戯曲を書く人がずっと羨ましかった。

戯曲は、何度でも同じ作品を舞台に乗せることができるからだ。

    チェーホフとかイプセンとか清水邦夫とか寺山修司とか井上ひさしとか、優れた戯曲家の作品は何年も何十年も毎年のように演じられているし、シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』を書いたのは429年前だ。舞台で演じられる作品を書けさえすれば、何度でも「同じ話」を聞いてもらえる。

    しかしわたしの主な活動場所は映像作品や小説なのである。同じ話を二度は書けない。ほんのたまに何度も映像化される脚本作品があるけれど(『阿修羅のごとく』とか)、それは制作側が選ぶことで書き手が望むのは難しい(優れた、という部分はこの際無視する)。

    戯曲は演出や出演者や解釈の差異を楽しむのだということは分かっている。でも一介の文章書きとしてはただただ羨ましいのだ。同じ話を何度も聞いてもらえることが。

 

    ミュージシャンも羨ましい。

ミュージシャンも、何度だって同じ歌を歌える。

    たとえばフラワーカンパニーズの名曲「深夜高速」は、2004年発売の歌だ。なのに今でもさまざまな場所で耳にする。いろいろなアーティストが、演出を替え解釈を変え、歌い継いでいるのもその一因。まさに戯曲と同じ構図だ。

    最近も、デビューしたばかりの20代のアーティストが歌っていた。

    まだ若い彼女が歌う、

 

      生きててよかった

 

    という言葉は切実で、ものすごく「死」に近かった。「死を選ばなくてよかった」と言っているようにわたしには聴こえた。生きることを必死でしている人の歌だった。

 

    我々が聴くことができるフラワーカンパニーズ自身による直近の「深夜高速」は2021年のTHE FIRSTTEKEバージョンだと思うのだけれど、その「生きててよかった」は、前述の彼女のものともオリジナルとも、全然違った。

    「死」が、ものすごく柔らかく軽いのだ。

    人生の半分を過ぎた人間にとっての「生きててよかった」って、確かにこういうことだよなあとものすごく共感した。何人かの死んだ友達がいて、家族との決別も経験して、その上でふと「生きててよかった」と思う。たとえば空を見上げたとき。たとえばバスのステップを降りて地面に足をつけた瞬間に。生きている、それはただの事実である。そしてどうしようもない喜びである。その実感がしみじみと染みた。

 

    わたしの大好きな「はぐれ者賛歌」という曲には、こんな歌詞がある。

 

     歌うしかないんだよ

     みんな自分の歌を

 

    20年近く前に発表された曲だ。フラカンはそんなに前から知っていたんだな。わたしたちは同じ歌を歌い続ける生き物なんだってことを。

    わたしが書いていることだって結局全部同じことなのかもしれない。語り口が違うだけで。人生かけて誰かに伝えたいことなんて、そんなにたくさんはないものだから。

    どうせみんな同じ歌しか歌えない。

   だから、胸を張って歌い続けよう。10年でも20年でも300年でも。

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小説家とエッセイスト 狗飼恭子 LINK

18歳のときに詩集「オレンジが歯にしみたから」(KADOKAWA)を上梓。その後、作家、脚本家として活動を始める。主な著作に小説「一緒に絶望いたしましょうか」、エッセイ「愛の病」(共に幻冬舎)などがある。また、主な脚本作品に映画「風の電話」(諏訪敦彦監督)、映画「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督)、映画「百瀬、こっちを向いて。」(耶雲哉治監督)など。近作に、ドラマ「忘却のサチコ」「竹内涼真の撮休」「神木隆之介の撮休」や映画「エゴイスト」(松永大司監督)などがある。