【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第60回 昭和を思うことで令和を考える by 青野賢一
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは青野賢一さんです。
日本でもっとも長く続いた元号、昭和。1926年に始まり、1989年1月の昭和天皇崩御で幕をとじる昭和は実に60年以上にわたるものだ。これだけの年数なので、人が思い浮かべる昭和像は当然のことながら時期によって大きく異なるだろう。第二次世界大戦で多くを失った日本は、戦後復興、高度経済成長、輸出超過による貿易黒字、バブル経済と歩みを進めていった。その間、テクノロジーや文化は大いに進歩、変化し、時代の雰囲気を形成して、あとから振り返ってみたときに浮かび上がる、ときどき、それぞれの昭和像ができあがっていったということである。自分に関していえば、物心ついたのが1970年代前半で、昭和も終盤の時代。そこから1989年までの「富める日本」が凝縮されたような20年ほどの期間が、わたしにとっての昭和像となった。
この20年ほどの「私的昭和」を思い返してみると、現在の人々の暮らしに用いられているものや技術の多くは同時代までに準備されていたといえる。携帯電話とインターネットが普及するにはしばらくの時間を要するが、それ以外は当時あったものやことのアップデートが進んだだけという印象だ。いわゆる「三種の神器」の登場と普及の前後で生活が大きく変わった、ということは我々の世代にはなく、テレビや冷蔵庫は当たり前に家庭に存在するものだった。ファストフードやコンビニエンス・ストアはわたしが生まれてしばらくすると出現するし、各種インフラも都市部とそれ以外の差はあれど今と大きくは違わないのだ。
便利さはさておき、暮らしのベーシックな部分が今とさほど変わらない状況だったその頃だが、文化や風俗においてはさまざまな変化と流行があった(いい方を変えれば、流行が生まれたりそれを楽しんだりするだけのゆとりが人々にあったとも)。ポピュラー・ミュージックにおいては、作詞家、作曲家、編曲家が楽曲を作り、誰かが歌うという演歌や流行歌、つまり歌謡曲の範疇にあるもの、1960年代後半頃からのフォーク、それから当時は「ニューミュージック」と呼ばれることも多かった、洋楽からの影響を大いに感じさせるシンガー・ソングライターもの、ロック・バンドといったところが渾然一体となっていたのが1970年代。1980年代には新たにテクノポップが大きな影響力を持つようになり、その方法論や演奏のノウハウが歌謡曲やニューミュージック界にも浸透していった。
現在、シティポップと称され人気を博す音楽は、前述のニューミュージックとテクノポップからの影響を受けたポップスが中心だが、その流行の背景のひとつには2010年代半ばあたりからインターネットで発表されていた、シティポップを元ネタにフィルター・ハウス的あしらいを加えたフューチャーファンクがある。そして、このシーンで早くから注目を集めていたのが韓国人プロデューサー、DJのNight Tempo。竹内まりや「プラスティック・ラブ」のアンオフィシャル・リエディットがYouTubeでとんでもない再生回数を叩き出し、シーンの第一人者となった彼は、ネット・カルチャーに安住することなく、Winkの公式リエディットを皮切りに作品を発表。近年ではさまざまなボーカリストをフィーチャーしたオリジナル楽曲や、矢川葵、市川美織とのユニット「FANCYLABO」名義での活動など、自身の好きな1980年代の日本カルチャーのエッセンスを現代のポピュラー・ミュージックとして提示している。
彼の嗜好は音楽だけでなく、サングラスやリストウォッチなどのファッション・アイテムからも見てとれる。こういうところからも昭和カルチャーに対する熱量が感じられるのは嬉しいところだろう。ところで彼のいう1980年代の日本カルチャーだが、わたしはリアルタイムで体験している世代。しかし、彼の音楽に最初に触れたときから、懐かしさよりは着眼点の面白さやサウンド面での現代性に興味を持った。現在用いられているものや技術の基盤の多くが1980年代までに準備されていたと先に述べたが、令和から昭和を照射するNight Tempoの音楽は、その意味で今という時代を考えること––––よかったこと、悪かったこと、何が変わって何がアップデートされているのか––––にも一役買ってくれそうだ。