【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第28回 風通しのいいサウンドにのる、特別でない日々 by 青野賢一
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは青野賢一さんです。
先日、大岡山のギャラリー「LOWW」で行われた荏開津広さん(DJ、ライター、早稲田大学非常勤講師)のトーク・イベントにお邪魔してきた。ジャン=ミシェル・バスキアとともにバンド「Gray」に参加し、DJハイ・プリースト名義でも知られるニコラス・テイラーが撮影したバスキアのポートレイトの展覧会の関連イベントとして催されたこのトークは、ヒップホップの成り立ち、グラフィティ、そしてバスキアの作品についてやジェンダー、政治の問題までと、実に示唆に富んだ内容であった。これを聞きながら、ヒップホップは日常におけるコミュニティの音楽だなぁと改めて思ったものだ。
ニューヨーク・ブロンクスを発祥とするヒップホップの出自はブロック・パーティー。クール・ハークの妹のためのパーティーが一家の暮らすアパートの娯楽室で開かれた際、彼はターンテーブル2台を駆使してソウルやファンク、ディスコのブレイク部分をエクステンドし、それがいわゆるブレイク・ビーツの端緒となったのは有名な話であるが、このように最初期のヒップホップは人々の日常の延長線上にあった。一方、ディスコやクラブはその歴史の初期において、とりわけ黒人や移民系の人らの辛い現実からの逃避行、つまり一種のアジールとして存在しており、当然ながらそこで聴かれる音楽、すなわちディスコ・ミュージックやハウス・ミュージックにもユートピア志向や忘我の境地へと導くドラマティックな展開がみられる。ようは非日常を味わい、それによって苦しい日常をどうにかやり過ごすための場所や音楽だったのである。
さて、今回取り上げるNelkoはギター、ベース、キーボード、ボーカル、ラッパーからなる5人編成のバンド。ラッパーを擁していることからヒップホップ・バンドといわれることもあるNelkoは2020年に活動を開始し、これまでに6作のシングル(いずれもデジタル・リリース)と1作のアルバム(デジタルおよびCDリリース)を発表している。楽曲がSpotifyやApple Musicの公式プレイリストにたびたび取り上げられていることからも人気の高さがうかがえるのではないだろうか。「ヒップホップ・バンド」と先に記したが、このバンドのサウンドは一般的にイメージされるヒップホップとはやや趣を異にするもので、たとえばアメリカでいうところのインディR&B、あるいは日本ならシティポップを想起させるメロウで柔らかな質感を持っているのが特徴だ。
そうしたサウンドにのるボーカルとラップは、なんということのないある日の風景や心情といった面持ちである。バンドが活動をスタートした2020年は新型コロナウイルスによるパンデミックがすでに始まっており、それまで当たり前だった行動様式に変化が生じていた。そんなところも少なからず影響しているのかもしれないが、聴く者の記憶や体験とすんなり結びつくような「特別でない日々」が穏やかに描き出されているのである。
ところで、最初期のヒップホップが人々の日常の延長線上にあったことは先に述べたが、この観点からNelkoの音楽をヒップホップと捉えても差し支えないだろう。いわゆる「トラック」でなくバンド・サウンドであるし、ヒップホップの四大要素のひとつであるDJが組み込まれているわけでもないので、狭義のヒップホップからはやや距離があるのは確かだが、そこで歌われる歌詞やラップのアプローチは実にヒップホップ的――かつてのヒップホップは日々の不平不満や虐げられている状態、劣悪な環境をラップしていたが、これもまた日常に起因する感情である――であるようにわたしは思う。一聴するとNelkoの楽曲のそうした歌詞やラップは「なんということのないある日の風景や心情」ではあるのだが、その「なんということのないある日の風景や心情」がいかにして維持されているか、あるいは維持されなかったか、その理由はなにか、といった事柄にリスナーが思いを馳せるだけの余地があるのがいい。風通しのいいバンド・サウンドがそれをさらに広げてくれる。