【LIFE MUSIC. ~音は世につれ~】第34回 嵐の雨を飲み干すような by 狗飼恭子
ESSAY / COLUMN
〈NO MUSIC, NO LIFE.〉をテーマに音楽のある日常の一コマのドキュメンタリーを毎回さまざまな書き手に綴ってもらう連載〈LIFE MUSIC. ~音は世につれ~〉。今回のライターは狗飼恭子さんです。
今日も雨が降っている。
わたしの家は山の高台にあるので、窓からは濡れそぼる森が見下ろせる。緑の葉はしっとりとして、いつもと少し色が違う。
数日前の夜は嵐だった。
ごうごうと風が吹いていた。木々は大きくしなり、葉っぱどころか枝までが風に折れ飛ばされていた。鳥も動物も気配を隠し、生きているものがいないみたいだった。もうずっと会っていないあの人は元気かな、なんて昔好きだった人を思い出しながら、強い雨粒が叩き続ける窓の外をじっと見た。そうして、ここは安全な場所だ、と思った。
どんなに怖いことがあっても窓の中にいれば大丈夫。
荒れ狂う空をガラス越しに眺めながら、わたしはのんきに「ブルーイングリーン 外は嵐」って、kiki vivi lilyの恋の歌を口ずさんでみたりしたのだった。
話は突然変わるけれど、ものすごく水が好きだ。
昨今のインフルエンサーが「美肌のために一日二リットルの水を」とよく言っているけれど、わたしはもっと飲んでいる(美肌ではない)。水を飲むたび、これは世界で一番美味しいものなんじゃないかと本気で思う。
我が家では普段井戸水を飲んでいる。真夏でもものすごく冷たい。田舎生活初心者のわたしにとって、浄水場を通っていない水を飲むというのはまだ特別な経験だ。ああこれはもともと雨だったものなんだな、とダイレクトに感じられる。空から降って、葉っぱを滑り苔の隙間を走り土に染み込んで、わたしのもとに届いた水。今このコップの中にあるのはあの夜の嵐雨だったかもしれない。そう思うと、少し不思議な気分になる。今わたしの喉を通り過ぎ体の中心に達した液体が、森を揺らし動物を怖がらせたあの雨だったとしたら。そんなことを想像してどきどきする。
kiki vivi lilyの歌声って、たとえばそんな、嵐のあとのコップの水に似てる、と思う。
彼女の声が素晴らしいことは、一度でも聞いたことのある人なら知っているだろう。澄んでいて甘くて、なぜか懐かしいような気がして、浮遊している。でもその中にどこか不穏な「なにか」が潜んでいるような気がするのはなぜだろう。
安全な場所でしか聞けない音楽だよな、なんて、嵐の夜を思い出しながら思う。部屋の中に閉じこもって、なるべく薄暗い部屋の中でこそ、わたしはkiki vivi lilyを聴きたい。
「Paper Drive どこにもいけないの 誰にも会えないよ しずむからだ夜は暗い」
そんな、薄暗さを甘い声でくるんだ歌たちを。
音楽と水は似ている。
生きているものは必ず水を飲む。人間も動物も虫も鳥も植物も。どんな水を飲むのかが違うだけ。不純物ゼロのぴかぴかの水を飲むものも、蛇口をひねれば出てくるものを飲む人もいる。水たまりの泥水を好むものもいるかもしれない。わたしは嵐を経験した水を飲みたい。ただのコップの中の水ですよ? みたいな表情でしゅっと澄ましている冷たい水を。
だからわたしは今日も明日も、kiki vivi lilyをごくごくと飲む干すのだ。
小説家とエッセイスト 狗飼恭子 LINK
18歳のときに詩集「オレンジが歯にしみたから」(KADOKAWA)を上梓。その後、作家、脚本家として活動を始める。主な著作に小説「一緒に絶望いたしましょうか」、エッセイ「愛の病」(共に幻冬舎)などがある。また、主な脚本作品に映画「風の電話」(諏訪敦彦監督)、映画「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督)、映画「百瀬、こっちを向いて。」(耶雲哉治監督)など。近作に、ドラマ「忘却のサチコ」「竹内涼真の撮休」「神木隆之介の撮休」や映画「エゴイスト」(松永大司監督)などがある。